ケン・コールマンは70年代に起こった急激な革命の中にいた。彼は1969年にクラブトレーニングを実施していたミシガン州のKalamazooでジャンプを始めた。1973年に、彼は彼のスチューデントだった3人と、4Wayリラティブワークの大会に出るためにチームを組んだ。彼のチーム「レインボーフライヤーズ」は、1974年と1976年にナショナルチャンピオンシップスとワールドカップで優勝した。また、1975年にはワールドチャンピオンシップスとナショナルズでも優勝した。この3年の勝利とタイトルを守っている間、ケンとチームの仲間は、練習代を補うため、彼ら自身のドロップゾーンを始め、スチューデントトレーニングをスタートさせた。

 それまで、ケンはパラシュートビジネスで生計を立てていた。初めは、タンデムを発展させた会社で、その次の会社もタンデムのパイオニアだった。そして彼は、スカイダイビングの技術の進歩を利用して、新しいスチューデントトレーニングプログラムを作るときだと決意した。

 1978年の初め、フロリダのキシミーで、ケンは、今までと違う種類のスチューデントトレーニングプログラムのプランを練り上げた。後に、ケンは活動の拠点となるDZを探し、宣伝文句と共に、フロリダのディランドへ行った。
彼の予想に反して、DZオペレーターのゲイリー・ドゥーピスは理解を示し、そして協力的だった。実はドゥーピスは、60年代終わりに、ハーネスホールドトレーニングに携わっていた。
 多くの人がスチューデントとハーネスホールドジャンプをしていた。しかし、ほとんどのジャンプは、スチューデントにより長いフリーフォールを経験させるための1回限りの試みだった。一度ハーネスホールドジャンプをしたら、また元の標準のプログラムに戻ることが多かった。そして、安全性の伴った公式のプログラムのもと、ハーネスホールドジャンプを標準化するという試みがなかったため、時々、これらのジャンプは悲劇に終わることもあった。
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